No.21 「ギターばんざい(その2)」

ざっと身の回りを見わたしてみても、完全な楽器というものはない。
あれはできるが、これはできないとか、ここではいいけど、あっちではダメとか、
なんだか人間と一緒だなあなんて思うこともある。つまり、優劣はないということ。
それでも、キャラクタに好ききらいがあったりするから、ますます同じだなあと感心する。
楽器の極は「人間の声」。つまりは歌(こいつにはかなわない)と、
打楽器である。 世界中のどんな楽器だってこの二つのポイントを結ぶライン上に
おさまる。もっとも 声(歌)に近い楽器はバイオリンなどを代表とする擦弦楽器だろう。
音の高さのはっきりしない打楽器(手拍子なんかがそれ)がその対極にあるんだけれど、
ちょっとだ け「声」のほうに寄っている打楽器というのもある。
有音程打楽器といわれる(単語は聞き慣れないけれど、納得できますね)、
マリンバとか、トーキング・ドラムなん かがそれ。
打楽器の特徴はなんと言っても、消え入る音である。

ことばをかえると、出た音に 「手が出せない」。
それにひきかえ「声」寄りの楽器は音が出てから「手が出せる」。
たとえば歌いはじめて音が小さかったら大きくすることが可能である。
カラーを変えることもできる、というのが特徴。  
  
で、ギター(やっと出てきた)はどの位置においてあげるのが一番妥当かというと、
ちょうど「歌」と「打楽器」の中間なのである。
そして、どちらにも限りなく近づけるということが、また凄い能力なのだ。
これは他の楽器にはまねができないと思いません? そうでしょう、カンタービレは
もちろんOK。リズミックな伴奏をやらせれば、パーカッション役も楽々こなせる。
そしてどちらもちゃんとサマになる。こういうふうに考えるとやっぱりギターは
最も完全に近い楽器だという結論になってしまう・・・・・ 。
ちょっとえこひいきが過ぎるか? な?

 
No.22 「ことば」

ふだん考えることもなく使っていることば。
人間が生みだした最高の道具であることばは音楽を学び、
理解していくプロセスにおいても、とても大事で便利なものだ。
レッスンの時にも当然それは欠かせないし、
重要なコミュニケーションの手段であることは事実だ。
ところが、それに信頼をおきすぎてしまうと音楽はするりと逃げていってしまう。
音楽は言葉に置き換えられないからこそ、価値がある。
  
具体的にどう注意するか?大事な場面になったら言葉で理解するということをやめて
みるのだ。たとえば「アクセントをつけて」と言われて、そのまま「わかった」つもりに
なっても、たいして役にはたたないけれど、先生が弾いてくれたそのタイミング、
勢い、鋭さ、音色などを聴き、からだの動き、呼吸、エネルギーの流れなどを
しっかりと見て、(ことばに替えることなく)感じとろうとすると、
がぜん今何が起こっているのかを理解することができる。
全感覚で受けとめることになるからだ。それが上手な学習のしかたである。
試してみれば一目瞭然なんだけれど、ことばをシャットアウトすると他の感覚器
 が非常にシャープになるのがわかる。この現象は音楽に限ったことではなくて、
他のことにも同じことが言える。

つぎに旨いものを食べたとき、「旨い」といわないで「感じる」のにまかせよう。
すると、そこは快感のうずである。ことばに替えると「うまい」の、
それこそ一言でおわりだ。旨さを説明していけばいくほど、
核心から離れて言ってしまうような気さえするのは思いすごしだろうか。
デリケートなコミュニケーションの時をおもいうかべてごらんなさい。
対面しているときだったら相手の表情とか、声の高低。
手紙だったら字の勢い(ワープロのじゃわかんないけどね)......etc. とか自然に
ことば以上のものを読んでいるでしょう。
音楽もそういうデリケートなことのひとつじゃありません? 

 

No.23 「プロとアマ」

音楽というフィールドでは、やっている内容はプロもアマも同じである。
どっちにしたって練習もしていれば、研究もしている。
でも、やっぱり一線引かれてしまうところはある。
(自分で)プロと言ってやってても極めてアマチュア寄りのひともあれば、
アマでもプロっぽいひともいることはいる。  
僕が考えているプロというのは第一に約束の守れる人だ。
なーんだ音楽性とか才能じゃないのか? 
とがっかりしたり安心したりする人があるかも知れないけど、
これが絶対的第一条件である。
編曲や作曲の〆切りに間に合わないとか、
練習や本番に遅刻とかいうやからは、遅かれ早かれ干される運命にある。
僕自身もそういう「生活習慣」の人とやることがあるが、
遅刻されるとその時点で当然やる気が(僕の場合は50%ぐらい)失われているので、
身が入らず、面 白いアイディアも湧いてこないのだが、
そういう人にはどうもその事実がわからないらしい。
だいたい音楽という時間芸術に関わっているくせに
遅刻なんてもってのほか! と思うけどね。  
  
第二の条件はバックグラウンドを拡げて行こうとする好奇心が旺盛なこと。
研究を面倒くさがらないだけのエネルギーを持っていることだ。
たとえば自分の弾く曲が編曲されたものであれば
(ギターはいかにその可能性が高いことか)そのオリジナルを手に
入れて研究してみるとかの手間ひま惜しまないという精神だ。
即役には立たないかもしれないが、永年積み重なってくるとこれが物を言ってくる。
この作業をしてないで時間をすごしてしまった人はやはり音楽が薄っぺらだ。
ただたんにギターにかじり付いているだけでは、何となくそれらしくは弾けても、
充実した音楽はうまれてこないのだ。
以下第三、第四と条件は続きがあるけれど、ここでは省略。
自分で考えてみるのも面白いですよ。

 
 
 No.24 「ふたつの耳」
 

ギターを続けていくのにどうしても必要なことがらに耳のトレーニングがある。
ギターのキャリアが積まれていくに従って、耳もセンス・アップしていくものだが、
ポイントに気付くとよりいっそうの磨きがかけられるようになる。
さてそのセンスだけれど、内容を調べてみるとふたつあることがわかる。

一つは自分以外の人が発する音を聴く耳。そしてもう一つが自分自身の音を聴く耳。
音楽を聴いている時「いい演奏だなあ」とか「すばらしい音楽だなあ」とか
言ってるうちは(もちろん演奏を磨いていこうという立場からなのだが)
あまり熱心に聴いている状態ではない。いってみればぼんやり聴いている状態だ。
実際に出ている音よりも心情に響いている物を味わっているのだ。
音楽は「音」という素材による物理現象だ(ちょっと堅苦しいけど他に言いかたが
ないのでかんべん)、というところに注目していくと、もう少し踏み込んだ聴き方が
可能になってくる。たとえばレガートに聞こえる場所では「心情的には」同じ音強で
並んでいるように聞こえるが、実際はそうでないのがわかるだろうし、また、
たとえば三連符の長さも均等でないのがわかるだろう。
フォルテのところは「そのように聞こえているだけ」なのかもしれない。
こうやって聴いてはじめて本当の音楽の姿がみえてくるのだ。

そのあとが自分の音を聴く耳を育てるということになるのだけど、
ギターを弾くという非常に複雑な運動をしている時に感覚器はあまりまともな状態には
いられない、ということは覚えていた方がいい。よく出会うのが、他人の音には敏感に
反応するのに、その本人が出す音ときたらとんでもない音の人達だ。
以前は不思議でならなかったけど、上述のような事実に気づいていくと、
しっかり納得がいってしまった。「心情」や「運動」に邪魔されない、
役に立つ「純粋な」聴き方もあるということでした。

 

No.25 「ラベル」

ひさしぶりに倉敷の大原美術館に行ってきた。好きなモディリアニやビュッフェや
モローなどの作品を楽しんだ。美術館は日常にない静かで大きな空間も同時に
たのしめるというぜいたくな場所だ。ひととおり絵だけざっととおして観て、
気に入ったのがあればまた戻って作者の名前を確認するというのが僕の楽しみ方だ。

作者や一般 的評価を気にせず見るのが好きだ。
ときどき企画展なんかに行くと、親切のつもりなんだろうが、
ああでもないこうでもないと解説が書いてあったりするが、まず読まない。
邪魔にはなっても参考にはならないからだ。
既成概念で感受性を鈍らせるのは嫌いだ。文書が最初に入ってしまうと、
理性が理解?してしまうのが恐いのだ。これはコマーシャルとおんなじで、
何度も言われたり、権威の発言などきいたりすると、それだけで鑑賞する側は
条件付けられてしまって、自由な「味わい」を奪われてしまう。
音楽という抽象の場でも同じようなことが起こる。
  
CDのライナーとか、演奏会のプログラムなどによくあるけど、例えば曲や演奏者の
解説に「巨匠」だの「伝統」などという言葉が見えると、一瞬「はあ、そうかいな」と
じっくりと考える前に一目置いて見て(聴いて)しまいがちだ。
でも本当はそんな知識がなくても聴けるのが音楽でありたい。
いい演奏に聴き入っている時、言葉など不要なのはその場の自分自身を観察すれば
よくわかるはずだ。その瞬間は音だけになっているはずだ。
解説は後になって読んでもじゅうぶん間に合う。順序が逆になると心細くなって
 しまう人もあるかもしれないけど、演奏会場に早く着いのだったら、
それこそその時間を心を落ち着けるために使った方がよほど気が利いてる。  
ワインの好きな人はやっぱり数を飲んでいる。いいのも悪いのも飲んでいるのだ。
そうしてはじめて、ラベルにだまされなくなる。

 
No.26 「あるものでやる」

「あるものでやる」というのが僕の基本的なスタンスである。
なんに対してと問われると「まあなんでも」というのが答えになりそうだ。
演奏の時なんかはいつもこれ。そのときどきのコンディションで間に合わせる。
よくあることなんだけど、だいたい「健康でないと演奏はできない」などという前提が
強固にあったりすると、ちょっとでも体調不全だととたんにそれに引きずられて演奏に
集中するどころではなくなってしまう。 いくら気をつけていたって風邪ぐらいはひくし、
万全の注意をしていたつもりでいても運が悪ければ、癌にだってかかるものなのだ。
パーフェクトな体調なんてめったにあるものではない(完全な体調なんてのは
ただの神話だと思ってればいい)。また勉強(準備)が十分でなければできないなんて
自分に言い聞かせてしまったら、演奏なんて一生涯できないだろう。

だから「あるものでやる」のだ。
どんなコンディションのもとだって「それなり」には対処できるものなのだ。
ひとつ条件をつければそれをクリアするために一仕事ふえるのは確実なのだ。
演奏という集中を要求されるときに仕事を増やすべきではないのはいうまでもない。

「あるものでやる」というのは「こだわり」のすくない態度なのである。
どうしたって自分の気に入らない音のひとつや二つは一曲のなかにはでてくるだろうし、
何となく乗りのわるい演奏になることもあるだろう。
けれど、それにこだわる時間が少なくなるのだ。
その分、早い対処が可能になる。つねにフレッシュに音楽と接していられると
いうことだ。おなじスタンスは毎日の練習に応用もできる。
いまできることがちゃんと選択できるようになるから無駄がぐっと減る。
「あるものでやる」は「今晩のおかず」から「人間関係」まで幅ひろく応用できる
たのしいキーワードなのだ。 
 

No.27 「ギターという非日常」

どんな音楽にも人に聞かせて楽しむ要素と、自分のために弾くという両面を持って いる。
ギターはその「自分で弾いて楽しむ」という要素がとても強い楽器だと思う。
かかえて弾くというフォーム。大きすぎない音量。はるか遠くに消えていく透明な音。
そんなところが原因なのかもしれない。
  
ギターを弾いて疲れをいやされた。ギターを弾いて嫌なことを忘れた。
ギターを弾いて悲しみが慰められた。ギターを弾いていたら頭(腹)痛がなおった。
ギターを楽 しんでいる人からよくそんな話をきく。
それは初心者から、ベテランまですべての人が受けられるギターからの恩恵である。
簡単な曲よりも難しいのが弾けるようになるほど効果があがる、なんてことはない。
どんなレベルでも同じだ。 これはギターを弾くということがとても「非日常」的で、
それまでの「日常」のリ ズムを断ち切ることができるからだろうと思う。
「日常」は忙しさにかまけたり、い ろんな理屈をめぐらせて頭のなかが「今・ここ」に
いることができない。放っておく と頭と身体は分裂状態になっているのだ。
たとえばご飯を食べながらTVを見ていたり、 ひとと話をしながら、
次のスケジュールを考えていたりすることはないだろうか?
心と身体が同時進行していないということ。
でもこれは明らかにエネルギーの浪費な のである。  
  
ギターを弾く行為は頭脳にそんな「すき」をあたえることがない。
分離した状態での演奏も可能ではあるけれど、
いい音楽はけっしてうまれてこないので、必然的に 「心身一如」を迫られるのだ。
その時には社会的に大事とされる「向上心」(まあ、 これもただの欲だが)とか
「計画性」(ちっぽけな判断からしていないと言い切るこ とができるんだろうか?)
などからも自由だ。そのとき生まれる大きなエネルギーが また日常に
生かされる。これこそ音楽をやっている最大の楽しみであり喜びである。

 
 No.28 「わからないという楽しみ」

ちょっとまともな音楽は一回聴いただけではなんともわからないものも多い。
ギターでいったらたとえばバッハのシャコンヌを一回聴いてどれほどのことが
わかるだろうか? もちろんすごい曲だ!とか、難しそうだとか印象を言うことは
できるが、細部は記憶の彼方に消えてしまって、あいまいなままだろう。
その後気に入って何度も聴くことによってこそ、どんどん深い味わいに変っていくことが
できる。なんども聴いてみようというのは「わからない」がなせる技だと思う。

なんども聴いてみると今まで気づかなかったメロディが隠れていたのを発見できたり、
音色の妙に感心できるようになったり、細かいニュアンスの差におどろいたり、
それこそ発見はいつまでもどこまでも続く。ひとつの音楽のいろんな側面に
気づくことができるようになるということは大変な楽しみ、喜びであり、
同時にその人のセンスが変化(もちろんいいほうに)しているということも証明してくれる。
この「わからない」のエネルギの集積こそが文化をつくっていると言えないだろうか。

ギターの弾くというこも「わからない」に満ちている。
はじめはギターを構えることだって「わからない」し、音の出し方だって1週間では
わずかな見当もつかない。言葉でなんとか説明することはできるかもしれないが、
わかったような気になるだけで、まず何の役にも立たないだろう。
練習をつうじて小さな発見をかさねていくことによって「わからない」を「わかる」に
変え、また新たな「わからない」を見い出して次に進むエネルギとするのだ。
「わからない」ことを楽しもう。ひとつの問題がわかるためには、
自分自身の変化が必要なのかもしれないのだ。
最後に「わからない」とともにある、というスタンスもあることを忘れずに。ね。
 

No.29 「キャリア」

コンコルドの誤りというエピソードがある。
英仏両政府が共同して開発を続けていたあの「超音速旅客機」コンコルドは
開発途中で明らかに採算がとれないという結論がでた。
ところが両政府は「これまで大金を投資したのだから」「ここでやめればそれが
無駄になる」という理由で、そのプロジェクトを続けさせた。
で、結果はやはり赤字が出ただけだった。
赤字になるという試算が出た時点で(最小限の傷で)やめておくべきだったのだ。
  
会社とか団体での問題の時は他人事で分かりやすいが、
同じようなことは個人のベルでもおこり、
自分自身のこととなるとなかなか事は判りづらい。
 
音楽キャリアを持っている人は要注意の話だ。
コンコルドの赤字の仕事を続けた理由の「金」を「努力」に変えただけですこし
見えてくるんではないだろうか? ある程度の曲が弾けるようになってくると、
それまでの経験にしがみつく傾向が出てくる。いちばんつまらないのが
「とにかく練習する」というレベル。「考えずに」という言葉をつけ加えると
もっと判るかも知れない。まあ、たしかにギターに触れたての時はそういうスタンスでも
上達(というのかな?)するんだけれど、あっという間にその時期は過ぎる。
また、今までの練習のスタイルに固執することで、あきらかに間違っていることも
変更するパワーをもてないという人もけっこういる。
固執する理由は「せっかくいままでやってきたから」
「いままでの工夫がもったいないから」である。
経験への執着はコンコルドの二の舞いの可能性大である。
すこしでも問題がでてきたらそこをチャンスに経験を洗いなおしてみると面白い。
なにかとんでもない勘違いや、 誤解が見つかればそれこそ
楽しい「キャリアをつむ」ことになるんじゃないだろうか?


 
No.30 「不随意筋」

筋肉にはふた通りのタイプがある。一つは随意筋、もう一つは不随意筋だ。
非常におおざっぱな解説をすると随意筋は脳の命令で動かせる筋肉。
たとえば腕とか脚の筋肉などをいい、不随意筋というのは動かそうと思っても
簡単にはコントロールできないもの、たとえば心筋とか腸とかを作っている筋肉、
そして全身のバランスをとっている筋肉(これが今回のテーマ)などを主にいう。

ギターを弾いている時ふつう気にしているのは「随意筋」の動きだ。
どうやって左手を弦に触れるか?右の指のタッチはどうすればスムーズにいくか、
なんて考えて弾いてる時は「随意筋」に注目しているのだ。これは分かりやすい。
ところがその細かい指や腕の自由な動きを支えているのはじつは不随意筋なのだ。
われわれはギターを弾くという行為のまえに、上半身を直立させ椅子にすわっている。
そのことは無自覚(自動的に)でもおこなわれるものだから、なかなか考えづらい。
日本の武道とか芸事(書道、茶道など)も基本フォームが正座であるのは、
こうした事実を経験的に知っていたからである。
あぐらをかいている状態では背中のテンションがすでに高くなり過ぎて
腕や手の「優雅」で「スピーディ」で「力強い」動きをサポートする前に脊椎が
自分自身を支えるだけで手一杯になってしまうのだ。で、正座を選んだ。
  
チェロのシュタルケルは彼のマスタークラスで一時間びっしり「坐る」レッスンだけ
やって終わったことがあったという話を昔聞いた。
姿勢(他にいい言い方はないものだろうかといつも思う)なんていうと
「形」(動かないもの)というふうにイメージしてしまうが、
 「バランス」と考えると、もっといきいきしたとらえかたができる。
そうしたときはじめて本当の意味の動きの要である
「不随意筋」がちゃんと仕事をしてくれるのだ。 



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  大谷 環/作・編曲、テキストは こちら   CD、録音作品は こちらへ どうぞ