No.66 「翻 訳」

 
古今の名作には名訳があり、
知らない国の言葉でも僕たちにその味わいを伝えてくれる。
日本の古典においても、たとえば源氏物語では
大谷崎の翻訳(現代語訳)などつとに有名である。
いい訳にであうと、ほんとうに楽々と読めて理解が進むものだ。

翻訳に必要なのは元の言語に詳しいのはいわずもがな、
訳す言葉にも詳しくなくてはできないだろう。
そしてそれを結ぶセンスも要求されよう。 
この翻訳とギターの練習がけっこう近しいと思うようになってきた。 
どういうことか。
楽譜からイメージされる音楽というものは、
そのままでは「音(楽)」にならず、頭の中の空想の世界に留まったままだ。
これを現実にしていくための試行錯誤の過程を練習というわけだが、
翻訳に似た作業と言っているのは、その元が「イメージされた音楽」。
訳し出されるものは「運動」である。 
 
いくら、レガートに弾きたい、あるいは軽々とスタッカートを、と思っても、
じっさいにその実現に必要な運動を熟知していなければ、
いくら練習を積み重ねたところで空回りし、無駄な時間を過ごすことになる。
なめらかに音をつなげたいために運動がゆっくり
(イメージとしては確かにそうなのだが)になって
逆に音が切れ切れになっているのはよく見かける間違い。 
 ヒントは、左手の「どの指を“いつ”離すか」「いつ“どこ”へ移動させるか」、
右手の「“どの指”を“いつ”弦に触るか」など、
ふだんは無意識にやっている動作に光をあてることである。
それを実践することで、すべての運動にはつながりがあることがわかり、
コントロールの意識に濃淡がなくなり、
運動は無駄が省かれ、合理化されることによって、
結果、音楽に余裕がうまれるてくるのだ。
じっさいに試してみると、その効果はてきめんである。 


 

No.67 「誰に習っているの?」

  
人はなぜか、何でも習いたがるようだ。
答をだれかから聞きたいのはことギターに限ったことではない。
理路整然とした説明など聞けば「なるほど」と腑に落ちて心地よい。
それだけでもけっこう満足できる。

最近の美術館などで解説の聞ける機械のレンタルがあって、
ずいぶん大勢の人が聞きながら鑑賞しているのも、
その辺りの心理をついているからだろう。 
 しかし、ことギター(音楽と言ってもいい)はたとえ習って、
答(弾き方の説明)を聞いたとしても、
「話は判る」という以上のものはなく、とても音にはならないだろう。
ティーチャーは問題のフレーズを弾いて聴かせてくれるだろうし、
解説もしてくれるだろう。
よいティーチャーであれば、音も話もきっと納得のいくものになるだろう。
ところがそれを自分の身体で実際にやるとなると、そのままでは使えない。
各人の脳も身体もその性能はたぶんわずかずつ違い、
その個体差からやり方を変え(アレンジせ)ざるを得ないからだ。 
 手の大きさとか、関節の可動範囲の差。
筋肉のレスポンスのスピードの差など、違う条件のもと、
それをひとつのやり方でくくるのはどうしても無理がある。

ティーチャーが示せるのは、ティーチャーのやり方だけである。
ティーチャーの模範を参考(じっさいにそこで見たり音をきけるのだから、
凄いことではあるけれど)にして、自分の感覚を頼りに、
丁寧に練習を重ねることによって探し出してこそ、
本人にぴったり合ったやり方は見えてくる。
こういう地味な作業、こういう探究こそがギターの面白み、醍醐味なのだ。 
 スペイン語で「誰に習っているの?」は、Con quien estudias? である。
con=with、quien=who、estudias=studyとすると判りやすいだろう。
教える側も習う側も「学んでいる」ということを含意しているような
このたずね方が大好きだ。